和歌の神様 衣通姫尊(そとおりひめ)

衣通姫尊と玉津島神社

衣通姫尊は、第五十八代光孝天皇の勅命により玉津島神社に合祀されました。 これは天皇の御夢枕に衣通姫尊が現れて、「立ちかえり またもこの世に跡垂れむ 名もおもしろき 和歌の浦波」との一首を詠じられた故事によるもので、これより玉津島の神は、住吉大神(攝津)・柿本大神(明石)とともに〝和歌三神〟の一つとして、朝廷はもとよりひろく一般文人墨客から崇められてきました。 

衣通姫 そとおりひめ

江戸後期に描かれた

菊池容斎『前賢故実』

より抜粋

 

ソトオリヒメ桜

玉津島神社の境内に咲く

「ソトオリヒメ桜」

見た人に清楚さと妖艶があいまった美を感じさせる姿を絶世の美女・衣通姫に重ねたといわれています。

 



衣通姫(そとおりひめ)

『日本書紀』によると、名は弟姫(おとひめ)。父は応神天皇の皇子、稚渟毛二岐皇子(わかぬけふたまたおうじ)。允恭天皇の后。美しい肌の色つやが衣を通して光輝く絶世の美女であったので人々から「衣通郎姫」(そとおしのいらつめ)と称された。各地を流離した後、日根野に落ち着いた。

同じ頃、河内潟(かわちがた)の湊(みなと)が地形の変化で使用できなくなり、旧紀ノ川河口付近が代わって重要な物流の拠点として稼働し始めた。すぐに玉津島の美しさは知れ渡り、衣通姫も訪れた。その姿を垣間見た地元の人々は神と見紛う思いであったが、間もなくお隠れになったと聞き、稚日女尊(わかひるめのみこと)、神功皇后が航海の安全を見守ってきた玉津島にその魂を鎮めた。 

七二四年聖武天皇行幸で、旧紀ノ川河口付近は「明光浦」(わかのうら)となり、山部赤人が「若浦」(わかのうら)と和歌に詠み、やがてその「わか」の響きから「和歌」を連想し、和歌の聖地「和歌の浦」となった。

衣通姫も和歌の浦にいま坐す神として、「和歌の神」となった。

 

大祭実行委員会 学術顧問(近畿大学付属和歌山高校・中学校図書館長)金田 圭弘 

 

※引用した文献資料

玉津島神社社伝 (玉津島神社公式サイトhttps://tamatsushimajinja.jp/)

『新編日本古典文学全集3 日本書紀1』(小学館・一九九四年)

『和歌の浦誕生 古典文学と玉津島社』清文堂・二〇一六年